

公演にあたって
ぼくのふるさとは別にあって、それは枝光じゃない。
2009年、思いがけない奇跡のご縁から、ぼくは枝光の空きビルを劇場に改造することになった。
今や日本のどこにでもある、シャッター商店街での奮闘。
そこで演劇をし、街のみなさんにご来場いただき、多くの仲間を得ることとなった。
地域ぐるみで、特に商店街のみなさんからは、まるで家族のようなご厚意と愛情をいただいた。
そしてぼくは、ここ、枝光をふるさとと錯覚してしまうのであった。
ぼくの家は、昔から商売をしていた。
町の小さな、売り酒屋である。
両親は、町のひとたちに元気よく声をかけながら、まじめに働いて、そしてぼくを育てた。
その背中は、脳裏から離れることはない。
そしてこの寂しくなっていく商店街にも、幼いぼくが見たものと同じような背中がたくさんあった。
それも錯覚の原因のひとつなのだろうと思う。
さて、錯覚。
ここで錯覚と表現したが、これはイメージや記憶の重複、デジャヴの連続に似たものである。
さらにそれは物理的な風景だけでなく、声援や叱咤激励の温もりという、温度あるものも含まれている。
そういうものに囲まれて演劇ができているという幸せ。
しかし、錯覚?
そう、ぼくの、ふるさとは、ここではないどこかである。
どこかと言ったのは、ぼくはそのふるさとに帰れないでいるからだ。
よくある、親戚を巻き込んだ「イエ」のゴタゴタで、誰が墓を守るとか、老後を看るとかの末の、惨事。
今もぼくは、とても心理的なものが大きいのだが、先祖の血が眠る墓には近づけないでいる。
そんなことを解決することもなく「枝光」で「演劇」なんかをしているのである。
だから、錯覚!
ここで起こるすべてのデジャヴは、現実逃避や、逆に回帰のための錯覚なのかもしれない、と。
そんな疑いが、この地にいることで、日に日に強くなった。
今日も目の前には、いろんなことを気づかせてもらえた町が目の前に広がっている。
八幡の風は、ふるさとのそれに比べて、体にまとわりつくように、脇を過ぎる。
さて、とても個人的なお話をしてしまった。
だけど、これが、この作品に向かう最初の出発点であることは間違いない。
すべての錯覚を見せてくれるこの町、時代の流れのなかに埋没しそうな、小さな商店街に立ち向かおうと思った。
総菜屋のおばちゃんは、まるで母のようです
蕎麦屋のおっちゃんは父のようです
和菓子屋の娘さんは、かつての恋人のようです
八百屋の若旦那は、弟のようです
魚屋に住み着いた猫は、学校で飼ってたアイツのようです
酒屋で飲んでいる輩は、ウチの酒屋で騒いでたアイツらのようです
ここにあるロマンと虚構、そして空間と時間の流れを捉えようとしている。
そこに、「オズの魔法使い」というファンタジーを、与える。
ふるさとに帰りたがっている、しかし帰れないでいるドロシーの姿を重ねる。
魔法があればいいのに、と願う人々の姿を重ねる。
すると、この枝光本町商店街は、オズの町に見えてくるではないか!
かつてこの町に栄華と夢をもたらした、そして今は動かない溶鉱炉は、なんでも叶えるオズの魔法のように見えてくるではないか!
この町でぼくを受け入れてくれたみんなは、オズの町の住民に見えてくるではないか!
今、ここ枝光では、ぼくには、ドロシーと同じように心強い仲間がいる。
そして、魔法がつかえなくとも、演劇という魔法のような武器を手に携えている。
それらを、武器にした冒険を始めようというのである。
旅の終わりは、見えていない。
それは、ご来場いただいたみなさんといっしょに見る風景だと思います。
さあ、どうか、みなさん、今は無くなった誰かや、想いや、町の記憶をひっさげて、劇場にお越しください。
そしてドロシーたちと町へ出ましょう!
実際のリアルな町を、みなさんの記憶と一緒に冒険して、空間と時間を超える魔法を見つけ出してみましょう。

構成/演出 市原幹也






